白川静先生の講演会を一度聴くとみんな大フアンになる。60年に亘る漢字研究は、古代漢字が出来る前の時代にまで遡り、夢と浪漫を与えてくれるとともに、人間の心の在り方の原点を示してくれる。
孔子様とお話ができる
―ところで、先生は『論語』もお好きだと伺っています。
白川 孔子様は時々いい言葉を使うておられる。あの『論語』の中に、孫弟子たちの言葉がたくさんありますがね、孔子の言葉だけは、読んでおると響きが違う。
―孔子の言葉だけが響きが違う?先生は孔子の言葉がどれかというのがわかるんですか?
白川 ああ、わかる。これは確かに孔子の言葉、これは孔子の言葉を受けて、再伝の弟子ぐらいが書いとる言葉だとか、それはわかる。
―そういえば、先生は「狂狷(きょうけん)の徒たれ」と言われていますね。
白川 それは孔子様が言っていることに、ぼくが賛同しとるわけです。孔子様はこう言っとる。「人間というものは中庸を得たものが一番よろしい」と。まあいわゆる聖人ですわな。しかし、「現実にはそんな中庸の人間がおるものではない」と。
それでは中庸の人の次にどういう人がいいかというと、孔子は「狂狷の徒がよろしい」と言うておる。「狂狷は進みて取る」、進取の気性です。世間を変えるには「狂」がなければならない。
そして「狷者は為さざるところあるなり」と。たとえ一億円の金を積まれても、わしは嫌じゃということは断じてせんという、それが「狷」です。
いまは、「金」を見せたら大抵は尻尾を振ります。それではいかんのでな。とにかく中庸を得ることは難しいが、その次には「狂狷の徒」がよろしいと、孔子は言うた。
なかなか孔子という人は面白い人で、やんちゃなところもある。だから孔子を、君子人の塊やなんて思うたら大間違いやね。僕は『論語』を読むと、孔子様とお話ができるんや。
―それは楽しいですね。2500年の時間を超えて。
白川 「あんた、そうか」と話すわけやな(笑い)。
孔子は「自分は芸に遊ぶ」と言ったんです。芸というのは学問ということですわ。技術的なことも含めて六芸といいますけれども。「自分は芸に遊ぶ」という境地が最高であると思うと言うているんです。ぼくもそういう意味でな、遊んでおるわけです。
―しかし何かを成し遂げようと思ったら、「狂狷」は必要ですよね。
白川 そうだ。1つの枠ができてしまっておって、これからもう成長できないというのがあるんですよ。そういうときには脱皮しなければならん。この脱皮というのは一種の「狂」的な瞬間ですよ。いまの17歳はね、脱皮し損ねて、逆の「狂」になるんです。「狂」を負うたまま、そのままで止まってしまうわけや。脱皮できない。
―それは、まさしく不幸ですね。
白川 それは ぼくは、漢字を教えんからだと思うておる。漢字の世界には、人間のいろいろな生き方がある。西洋の文学が好んで読まれとるが、大体言うたら若者の文学が多い。
一方の漢文は、老成人が世の中を渡っていろいろな体験を積んで、成功もし、失敗もし、失意のうちにあって詩文をつくるのです。失意のときにこそ、ものが本当に見える。
だから漢文を読めば大人になれる。その大人になる学問を教科から外してしまった。それで今の青年は大人になり損ねているわけだ。ぼくは、若いときに中国の詩文に遊んで、早く脱皮したからな(笑い)。