早朝、大阪のユースホステルをタクシーで出発し、梅田に6時に到着。すでに中央観光のバス2台が到着していてクック・ドウ差し入れの弁当も積み込まれていた。この時間の梅田はスキーに行く若者や旅行に出かける人ですでに混雑していた。
関係者の見送りを受けて6時30分に梅田を出発。バスは最新の長距離用大型観光バスが準備され床が絨毯、天井にシャンデリアと応接並みの素晴らしい内装だった。
普通ならば梅田から目的地の御影公会堂までは2時間で走れる距離だが震災後の神戸の交通状況は全く想像できなかった。途中から神戸に向かう道路は警察官によって検問所が設けられ通行許可を受けた車両しか通さなかった。パトカー、消防車、救急車、作業車、自衛隊の車などに限定されていた。
神戸に近づくにつれ被害の物凄さに驚いた。町全体が破壊された戦争映画の撮影セットのようで、初めて見る地獄の風景の異様さにただただ驚くばかりだった。崩れた瓦礫の道をみんなリュックを背負ってひたすら歩いていたのが印象的だった。10数階建てのビルの中ほどがペシャンコになって傾いていた。テレビの画面や新聞の写真では見ていたが、現物の破壊された巨大な塊には強烈な恐怖感を感じさせられた。
余震でバスが揺れた、かなり大きな揺れだった。3時間30分かけてやっと御影公会堂前に到着した。バスを降りた瞬間周囲の焼け焦げた臭いと強烈な寒さが一気に押し寄せた。テレビの映像からは絶対に伝わらなかった現場の厳しさだった。
現地にはすでにバスに乗るお年寄りが集まっていた。お世話役のボランティアの人や関係者で混雑する中で責任者の山田和尚さんがお年寄りに松山道後への一時避難の説明を改めてした。「松山の道後温泉に入って心と身体をゆっくりと癒してください。バスの中にはお医者さんも乗っています」と。
当初60名の予定だったが現場の混雑と突然の人選が難航し最終的に39名になった。
ボランティアの人に誘われて避難所からバス乗り場まで来ては見たものの、愛媛県の松山へと言われると不安を抱く人が沢山いた。 中には納得してバス乗り場まで来たが「そんなに遠いとこへ行くのなら、ここで死んだ方がいい」と急に松山行きを取りやめる人が数人出た。
避難していた学校の体育館は、体育道具を収容している物置が遺体安置所になっていた。避難者は、亡くなって毎日そこへ運ばれる人を一週間ずっと見続けていた。
震災にあって着の身着のままで一週間、1日おにぎり一個と水コップ1杯、しかもお年寄りばかりで、精神的にも肉体的にも極限まで疲労していた。それだけに松山行きを納得してもらうのが大変だった。
「もっと近いところに避難所がないの? なんで松山なの」 皆さんに言われた。そんな中、山田さんの一声が効いた「行ってお風呂に入って美味しいものを食べて、それでも帰りたかったら翌日でも神戸にお連れします。とにかく一度行ってください」・・・・・それで皆納得した。11時ころやっと御影公会堂を出発することが出来た。兵庫県を出るまでパトカーが先導してくれた。
続きは また 明日