バスに乗った39人の手荷物は殆どの人が紙袋一つだった。地震の際、寝巻き・バジャマで上着だけ引っ掛けて飛び出た人が多かった。
救援物資が全国から少しずつ届き始めたがそれを仕分けするスタッフ、配布するスタッフがまだ不足していた。避難所の確認や避難している数も本当に把握できていない状態だったので被災者が必要な救援物資を受け取ることは当然できない状態だった。
バスに乗ったお年寄りの眼は虚ろ、窓ガラス越しに見る変わり果てた神戸の町並みをぼんやりと見つめていた。
バスが出発して間もなく、私がマイクをとり挨拶と松山までのスケジュールを簡単に話した。そのあとスチュワーデスが「暖かいお茶、紅茶、コーヒを準備していますご希望のものを・・・」とアナウンスすると驚いたことに殆どの人がコーヒだった。(お年寄り=日本茶を予想した私の感覚が田舎的だった。)
コーヒーが次々と配られた。やがて「美味い!!」「ああ~おいしい~」と車内のあちこちで感動の声が聞こえた。
被災後、初めて口にした暖かい飲み物、しかもクック・ドウ差し入れの上質のものだったからその味は格別のものだったはず、車内の空気が一瞬にして和やかなものになった。
コーヒータイムが終わってから待機していた清水医師が一人一人声をかけながら診察を始めた。緊張が解れた後が一番身体にとって変化が起きやすいので要注意なのだ。
途中休憩のため倉敷市の児島にある国民宿舎「王子が岳」にバスを止めた。岡山県で環境活動をしている岡山リスポンス協会の中村俊一氏が手配してくれていた。休憩といってもバスから休憩所まで一人一人にすべて付き添いが必要なのでかなりのボランティアの人員が必要だった。
中村俊一氏は倉敷市と打ち合わせをして準備万端整えていた。
バスが到着すると待っていたボランティアの皆さんが歩ける人は両脇を支え、歩けない人は背負って休憩室まで運んだ。すでにお風呂が準備されていて一週間ぶりにお風呂に入った。入浴後軽い食事にとうどんが出された。風呂上り、浴衣に着替えて食事をされた皆さんは全く別人に蘇った。ひと時ではあったが旅行者のような安らぎの表情が見られた。
そのあと中村俊一氏がみなさんを別の大広間に案内した。そこには下着、セーター、スカートなど着替えに必要な衣類が所狭しと並べられていた。「みなさんのために準備したものです。お好きなものをお好きなだけお持ち帰りください」。
このとき準備された衣料品のセンスに驚いた。バーゲンセール売り場ではなくデパートのブランド品売り場に展示されているようなファッションセンスの良い衣類が並んでいた。 準備に携わった担当者のセンスかもしれないが私には倉敷市の文化の高さだと感じられた。
大きな紙袋が準備されていてその大きな袋を三つ四つとお土産に足取り軽くバスに乗り込んだ。荷物は名札を付けてボランティアがバスに運びトランクに収めた。
私の頭の中は、朝からパニック状態だった。昨日大阪に到着してから沢山の人にお会いし、挨拶を交わしいろいろ一緒に準備作業をしたが周辺の流れが余りにも早く、その目まぐるしさについていけなかった。、ビデオを3倍速で見ている感じで自分に与えられた目の前の作業をするのがやっと。お手伝いいただいたボランティアの皆さんの活動状況とか周辺関係者の様子を記憶する余裕は全くなかった。
続きはまた明日