『つらかろう おれも乞食を五十年』
山口県出身。少年時代京都東本願寺、宇治市の黄檗山方福寺で僧として修行の後各地を放浪。1937年ころ、松山に腰を下ろした。リヤカーを引いて市内を転々、荷台に座って1日、50人以上の手相を観た。代金十円也。格安の料金と言いたい放題の毒舌そして、さらりと書きなぐる書画が人気で、多くのフアンを集めた1976年冬、72歳でその生涯を閉じるまで続けた。
昭和40年頃、私がよく通っ路地裏の居酒屋があった。「どんこ」という店で、親父さんがインテリくずれ、変わった客が大勢集まった。この店で遅い時間に、桂山さんと席を同じくした。
桂山さんは、他人に奢ってもらう事を嫌ったが、私からの好意は、不思議に素直に受けてくれた。そのかわり「手を見せろ」と私の手のひらを掴んで一通り、講釈をしてくれた。逢う度に「手をかせ」と言われるので「先週も観て貰ったから」と断わっても、やはり、その都度、あらためて観なければ収まらなかった。 そして、何度観てもらっても、言うことは、同じだった。
『30歳で課長』、『40歳で部長』、『50歳で社長』であった。
入社して数年後の頃、本気で将来は、大手石油会社の社長をと夢見ていた私である。それをまともに信じていた気配がある。
25歳で結婚し、その後二人の子供に恵まれ、妻と子を従えて『家長』になり、30歳で柔道部の『部長』になり、1994年、50歳になったとき、経営する酒販店を法人化して、名前だけの『社長』になった。桂山さんは、易断した『社長』がどこの会社であるのかそれを言わなかった。私が勝手に、その当時勤めていた、石油会社と勘違いしただけなのだ。
話を戻して、運命占い 第一話で登場した手相学、足相学を学んでいた刑事さんも、この店の常連であった。そして、その先生が、村上桂山さんだったのだ。
私は、二人の手相専門家から、将来の太鼓判を押してもらっていたのだ。
桂山さんの書は、ユニークでとても素晴らしかった。墨の色が良い、墨摺り10年、といわれ、和尚さんが使う墨を、ただ摺る修行を10年続けたのだ。
晩年を松山で過ごした山頭火は、「歩き続ける禅行であった」それに対して桂山さんは、「乞食禅」と評された。
残念なことに、私の『社長』の次の易断をしてもらわなかった。でもそれを聞くと『俺をみろ』と言われたに違いない。
「捨てきれば さらりと涼し 秋の風」
「生きておれ 食うことのみが 人のみち」
「あれば食う なければくわん まめのめし」
「底抜けの 此の大糞や 今日も無事」
私に書いてくれた絵は猫、それに書いた詩は「よくもまあ ここまで生きたぬすと猫」である。
桂山さんは、易を通じて、みんなを優しく励まし続けた。
『つらかろう おれも乞食を五十年』 万感をこめた慰めと癒しの言葉が歳を重ねるほどに、心の奥に深く沁みてくる。