自転車で上京して「葡萄全書」を入手!
昭和10年、20歳になった息子の慶一さんが「父ちゃん、やってみようよ」と、源作さんに葡萄栽培を提案した。隣の山梨県は、葡萄の名産地。気候風土の似ている秩父でも、うまくいくかもしれない。源作さんも夢をふくらませた。
早速、一反5畝の畑に葡萄を植えた。秩父では始めてのことである。外国の葡萄園を真似て、畑の地価に鉛の管を敷設した。水利の便をよくするためである。
・・地震のため中断・・・
・・・・今地震です。0時36分です。ゆったりとした動きでだったのでショツクはありませんでしたが店のシャンデリアとか観葉植物が揺れています。・・・・・・テレビをつけると松山市は震度1、震源地は種子島近海マグネチュード6.0・・・・
・・・続き・・・
そして、初の収穫。源作さんは山羊の乳と一緒に穫りたてのぶどうをリヤカーに乗せて、売りに出た。珍しいので八百屋がいくらでも引き受けてくれたが、なにせ安すぎる。父子で一生懸命栽培してみたが、収入の足しにはなりえなかった。この葡萄に付加価値をつけなければならない。二人は必然的にワイン製造に着目した。
たしかに、葡萄は山林や荒地を開墾したところにも栽培できる。従来の畑をつぶす必要もなく、立派に両立できる。副業として葡萄を栽培し、ワインを醸造できるようになれば、1年を通して安定した仕事が生まれる。貧しい奥秩父の山村にとって、これほどの福音はない。
だが、ワインとは、本物のワインとはどのようにして造るものなのか、父子はゼロから勉強しなければならなかった。早速帽子と背広を新調しワインの本場山梨のワインメーカーへ醸造技術を学びに出かけた。
醸造家を一軒一軒訪ねて教えを乞うたが、どこでも口裏を合わせたように、秘法だからといって教えてくれなかった。
孤立無援のなか、父子で額をよせあい、試行錯誤の日々が続いた。この父子はめげるということがない。とにかく、正真正銘の本物のワインをつくるのだ。二人はひたむきな思いをたぎらせて、独力で創意工夫を続けた。
そんなある日、慶一さんが耳寄りの話を聞いてきた。川上善兵衛の「葡萄全書」が東京・神田の古本屋に出たという。この本は、日本人の手によるワインづくりの普及の名著といわれていたが、すでに絶版になっていた。二人は胸をおどらせた。その本を読めば、本格的なワインをつくれるのだ。
だが、その値段が3冊で36円!!百姓が3日働いても1円にしかならない。大工の日当が50銭の時代だ。二人は顔を見合わせた。「よし、買おう」と、源作さんがいった。慶一さんも頷いた。二人は、山羊の乳で蓄えた有り金を全部はたくことにした。
翌日、慶一さんが自転車で神田へ向かった。奥秩父から東京・神田まで自転車で!?まるまる二日はかかる。当時はまだ、秩父まで鉄道も開通していない。慶一さんにとって、最も早く神田の古本屋にいける方法は、自転車しかなかったのである。
源作さんは、一銭も使わず野宿できるようにと、野宿用の座布団、雨合羽、ロウソク、二日分のにぎり飯、さらに無けなしの金を持たせて、息子を送り出した。
3日後、慶一さんは念願の「葡萄全書」を購入して戻ってきた。疲れきった顔が明るく輝いていた。さァ、これで本格的なワインを造れるぞ。父子は、その秘から「葡萄全書」をむさぼり読んだ。もともと読書の大好きな父子である。名著ゆえに難解なところもあったが、内容の一つ一つが、あたかも純正ワインのようにスーッと体中に浸み渡っていった。
昭和14年、源作・慶一さん父子は、ようやくワインの醸造に成功した。独力でつくった葡萄100%の天然ワインだ。父子は抱き合って喜んだ。