デジカメを使用するようになり、データーをPCに取り込んで整理するようになってから古いアルバムを余り開かなくなった。
古いアルバムの中の特に気に入ったものを全部パソコンに取り込んだからだ。久しぶりに古いアルバムに一通り眼を通した。そしてハッと氣がついた。初めて写真の向こうにある撮影者の眼差しに氣がついた。
写真に写っていない人が撮影者なのだ。これまで写真に写っている人、風景などしか見ていなかった。そしてそれだけで終わっていた。
ところが写真の一枚一枚について誰がシャッターを押したのだろうと想いだしていくと、写真がまったく違ったものに見えてきた。
一枚一枚撮影されたとき、シャッターを押す瞬間に撮影者の全身全霊が篭っている。撮影者の心が入っている。それに今まで氣がつかなかった。
私が幼稚園の頃は、まだ一般の家庭ではカメラを持っている人が少なかった。しかし新しいものにすぐ興味をもった私の父は、当時からオリンパスのカメラを持って撮影していた。
親戚にある古い写真を見ると私の父が撮影したものが多い。そのかわり私の父だけが写っていない。
私の妻は、50歳を越えた頃から皺が増えたからと、被写体になるのを嫌がるようになった。ところが2年前に孫が生まれてからは、孫と一緒のときにはカメラを向けても何もいわなくなった。 写真を見ると確かに歳を重ねた苦労の影も写っているが、その反面、歳を重ねなければ身につかない美しさもまた写っている。
そうした孫中心の写真の中にやっぱり私が写ることが少ない。撮影者は写らないのだ。
しかしカメラのシャッターを押す瞬間は、構図、そして楽しそうないい雰囲気を写すタイミングを考えて最高の一瞬にシャッターを押しているのだ。私は写らないけど、私の心が写真に入っているのだ。
そう思って一枚一枚の写真を写した人を想い出し、感謝をして心の眼で観ると、全部の写真が大切な宝物になった。写真の撮影者の大半がもうこの世にいない。
感謝!!忘れていたなあ・・・・・・今さら遅いけれど・・心を込めてありがとう・・・・・・・今朝はその感謝をしながらお香を焚きたい。