△ 昭和37年春、希望した石油会社にエンジニアとして就職した。最初の職場は製造部製品化で基本給15,100円…一般の給料が13,800円と言われていた時代で、破格の高級だった。
8年間現場の仕事を勤めて、その後自己申告で事務職を希望して昭和46年総務課勤務に移動した。昭和53年に工場の対外活動を総括する『地域社会化』に移った。
官公庁。マスコミ、近接地域の農業団体、漁業団体、などパブリックリレーション(PR)の仕事で毎日やりがいのある仕事だったが、12月の年末挨拶や1月の新年挨拶のころは、毎日が接待宴会で帰宅するのは午前様…それが当たり前だった。
しかも企業活動が盛んになるほど接待の仕事が増えてベテランの部類になっていた。アルコールを毎日1.8リットルは最低飲んでいた…このまま、この部署にいるといつか肝臓が、いや命が危ない!と思うようになっていた。
昭和54年1月の始め、会社の食堂で昼食を食べているときに比叡山千日回峰行をしていた酒井雄哉阿闍梨の想像を超える荒行を観て感動した。
私は毎夜、歓楽街を徘徊し千日回遊していた…こんなことを続けていると心身全てがダメになる…そう感じた。
食事を終えてそのまま課長の所へ行った。『6月末で会社を辞めます!』と決心を伝えた。それが会社生活の最後の最後であり、第二の人生、酒販売の始まりの始まりだった。